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 Hatoma Island festa鳩間島民族芸能と三線の夕べ
 武士家(ブシヌヤ)の歴史〜古琉球
 

撮影年不明:昔の鳩間島港からの風景


貝塚から推定される鳩間島の歴史は12〜16世紀頃と考えられています。

「古琉球」と呼ばれる時代です。
日本では室町時代に相当する時代です。

古琉球は南西諸島で「琉球王国」という独立国家がうまれ
アジアとの交易で最も繁栄した輝かしい時代とも言われています。

沖縄の基礎になる様々な文化や仕組みが生まれた時代でもあります。

古琉球王国は、北は奄美大島・南は与那国島までを抱える海洋国家です。
「間切り」という行政区画が設定されていて、宮古・八重山は
「宮古間切大掟」「八重山間切大掟」と王府中央官僚がそれぞれの
支配を担当していたと言われます。

その時代、王府と各島の首長との関係は色々と史実として残されては
いますが、離島への貢納品加重の圧力が強くなっていく時代です。

 

 


 宮古・八重山の古琉球時代
 

写真:武士家平面図

 

歴史を調べていくと
王府対宮古・八重山、または宮古勢力と八重山勢力の関係など
様々な反乱が起きています。

首里王府は首都建設に伴う財政上の必要から離島への貢納品加重の
圧力を強める。その圧力をはね返す島の首長たち。

鳩間島には当時どのような方がリーダーシップをとっていたのだろうか・・・

史実には残されていない島の歴史を考える。
八重山地方と大和との交易、アジア諸国との交易があったことを
裏付ける武士家は、歴史を考える大切な場所でもあるのです。

武士家からは外来陶磁器が発掘されていることから
古琉球期に交易者が根をおろしていたかもしれないとも言われています。

 

  武士家とは
 


鳩間島北側に位置する武士家跡地


先島諸島には、石積の丘のような建造物が数多く残っています。

海上の船を監視する見張り台で火番守(ひばんむい)と呼ばれてました。

鳩間の武士家も「火番守の役目を担うのろし台だった」と言われてますが
名前からしても「その中には武士が住んでいた」という
言い伝えが強く残っています。

世界遺産に指定されている沖縄本島のグスクは「城」として一般的に考え
られていますが、奄美から先島までの範囲には400以上ものグスクが
あり、岩や墓だったり、人の身丈もない石積みで狭い場所を囲ったりと
どう考えても「城」とは言えないグスクもあるそうです。

最初は小さな聖地に石積みを囲ったり、集落だった場所が発展し
首長の居館となり王の宮殿として大きくなったグスクもあります。

鳩間の武士家も時代が続いていれば、大きなグスクとして発展していた
かもしれませんね。

 


  島のシンボルとして
 


その後・・・歴史は流れ
火番守としての役割から解放された武士家は
島のシンボルとしてそこにありました。

遠足の場所としてにぎやかに楽しい時間もありました。
成人式の記念撮影の場所でもありました。
また島の若者たちが
恋を打ち明けあったり
夢を語りあったりするロマンあふれる場所でもありました。

古く見づらい写真ですが昭和30年後半頃に撮影された武士家です。




 武士家再建にむけて
 


 

 


カツオ漁、赤イカ漁、ツノマタ養殖と隆盛を極めた頃には
カツオ漁船7隻を擁し、カツオ節工場6ケ所、人口も700人余りを数えたが
時代の流れとともに、魚場の変移、価格低迷などの要因のもと衰退。

過疎化の島と変貌していきます。
それでも、様々な離島苦を抱えながらも先輩有志、部落民一同血の
にじむような努力で島を守ってきました。

島の桟橋は、大きな船が停泊できる規模がなく
貨物船は沖泊まりで、サバニほどの小さな船で渡っていました。

島を出入りする唯一の交通手段でもある貨物船に乗り降りするのも
お年寄りや子供や女性は苦労してました。
貨物船で運ぶ生活物資も、波がかぶり水浸しになることも
当り前の日常でした。

護岸整備がようやく行われることになったものの
埋め立てに使う大きな石が不足、他の島から石を運んでくるのも
費用的に困難。

そこで下された選択が武士家の石を埋め立て用として使うことです。
島内でも賛否両論ありましたが、生活の基盤を築いていくことが
一番大切な決断でした。

 


 武士家再建・・先輩たちの思い
 


武士家再建へと以前から準備されている石



今の鳩間島の風景を
今は亡き先輩達はどう見ているのだろうか?っと考える時があります。

水もあたりまえのように水道から出ます。
電気だって使いたい放題使えます。

石垣まで、40分かからないフェリーが1日に何便も往復してます。

便利な島になりました。近い島になりました。

それでも過疎化や地場産業の思いなど、困難な問題は多くあります。
その中で、島の人誰もがずっと心にある「武士家再建」。

今までも、再建に向けて町や県や国に働きかけても進展は見られない。
一番の問題は在りし日の武士家を知るおじぃやおばぁの高齢化と
個々に昔の記憶が薄れていくこと。

今しかないと感じました。
今再建しておかないと、武士家はずっと「武士家跡地」のままだと。



 







昔の資料や記憶をもとに
武士家の形が見えてきました。

島の有志達で作り上げていく武士家の模型。

今は小さな模型が
いつか、近いうちに本物の武士家として再建されます。

島のシンボルとして素敵な場所になる事でしょう。

「小さな島から見だす大きな可能性」を合言葉に!




 






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