昭和35年頃には300名ほどの島民が、カツオ漁、赤イカ漁、寒天の材料になるツノマタ採りなど、天水や自家発電をたよりに半農半漁の暮らしに耐えていました。
人口は減る一方です。復帰後の昭和49年には27人ほどに激減しました。
昭和24年に開校した「鳩間中学校」。わずか11日間で校舎を建設し、在校生38人でスタート以来、毎年30人前後の在籍数がありましたが、過疎化の波で生徒数が減り、昭和49年の卒業式をもって廃校となりました。
同時に小学校も存続すら危ぶまれる事態になっていきます。
「学校をなくしては島の存続にかかわる」と島民が立ち上がり、里親制度の導入へとつながっていきます。
島民の熱望が実り、昭和59年には10年ぶりに中学校も復活し、現在の
「鳩間小中学校」があります。
離島苦は常に島ぐるみの努力で克服してきました。
●昭和53年10月18日・・・電話が自動ダイヤル化。
●昭和54年1月10日・・・ヘリコプターの離着陸施設完成。
●昭和55年4月・・・港湾のしゅんせつ工事が完成。200トンの船が桟橋に横づけ可能になる。
●昭和55年7月30日・・・海底送水管が完成。通水開始。
●昭和58年6月15日・・・海底送電工事完成。7月1日から点灯。
生活物資を運んでくる船は、沖どまりで、そこからハシケで物資を運ぶ生活が続いていました。荷物が濡れたり、卵が暑さにむれて腐ってしまったこともありました。また、人も荷物も同じように運ばれてくるさまは痛々しいほどでした。雨水をたよりに生活していた頃、雨不足のときには西表島や石垣島から飲料水を船で運んでもらったりしてました。
現在では、石垣島からの交通も便利になり、シマチャビは確実に島から去っていきました。島の方々の忍耐と努力と願いが島を守ってきたのです。
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